米国科学アカデミーの National Research Council の上級研究員に選ばれ、日米共同エマルション実験グループ(JACEE)の一員として家族とともにアラバマ州ハンツビルにあるアメリカ航空宇宙局マー
シャルスペースフライトセンター(NASA/Marshall Space Flight Center)において研究員として宇宙線の研究に従事しました。
マーシャル飛行センターは宇宙放射線の研究に歴史を持っており、宇宙からの X-線、γ-線、宇宙線等について勢力的に研究を行っています。
JACEE実験は宇宙線の飛跡を記録するための原子核乾板を気球を用いて大気上空で直接地球に入射する高エネルギー宇宙線に被爆させ、地上に回収後、現像を行って写っている宇宙線を光学顕微鏡を使って調べるというものです。
記録された宇宙線の解析は、顕微鏡下における飛跡の解析ならびに種々の物理量を求めるために、入射宇宙線が原子核乾板中で起こす核衝突を原子核相互作用モデルに基づき計算機シミュレーションを行います。
今回の渡米では、主に宇宙線、陽子、ヘリウム成分のチェンバー内衝突の計算機シミュレーションの仕事に携わり、エネルギーの決定に必要な電磁カスケード・シャワーの計算を行いました。
滞在中には、カナダのカルガリ大学で開催された宇宙線国際会議に参加する機会にも恵まれました。
家族とともにアメリカで生活した経験は、すべてにとって貴重なものをもたらしました。南部アメリカは
私たち家族を親切にもてなしてくれました。アメリカ滞在の間、家族とともに南部アメリカ各地を訪問する機会を得ました。また、日本人で初めてスペース・シャトル・エンデバーに搭乗した毛利衛さんの
打ち上げをケネディースペースセンターで見学する機会にも恵まれました。
家族とともにアメリカで生活した経験は、すべてにとって貴重なものでした。南部アメリカは私たち家族を親切にもてなしてくれました。アメリカ滞在の間、家族とともに南部アメリカ各地を訪問する機会を得ました。また、日本人で初めてスペース・シャトル・エンデバーに搭乗した毛利衛さんの打ち上げをケネディースペースセンターで見学する機会にも恵まれました。
これは、マーシャル・スペース・フライトセンター宇宙科学研究所研究員として南部アメリカで家族と過ごした体験や経験した記録です。
私達が過ごしたアラバマ、ハンツビルは人も物も優しさに満ちていたような気がします。アメリカと言えば銃社会を思い出します。しかし、そのようなことはここから先にも思い付かなかった1年間でした。
また、つい最近まで激しかった人種差別も私達にはあまり感じられませんでした。休日を利用して旅行した南部諸州で出会った人々はみなさん私達をとても親切にもてなしてくれました。人種差別を受けた黒人の人たちも今では北部よりも南部に住みたいと言っていると聞きます。アメリカを語るとき南部を忘れることはできません。今回一緒に生活した私の子どもたちも大きくなって自分達が住んだハンツビルの地をいつか思い出し、大きなアメリカに思いを馳せてくれることを望んでいます。
ハンツビルの近くにある名所を紹介しましょう。ハンツビルから車で1時間ほど西に行ったところにタスカンビアというところがあります。そこには、三重苦を克服し世のため、人のために尽くしたヘレンケラーの生家があります。彼女の生家の周りは、大変静かな場所で、町の回りは農場や綿花畑で囲まれています。以下の写真はヘレンがサリバン先生と一緒に暮らした小屋です。また、はじめて水ということばを覚えた井戸も近くにあります。中学の英語の教科書ではじめて知ったヘレンケラー、water という言葉をはじめておぼえたその井戸がそこにあるかと思うと何だか熱いものが込み上げてきました。
私が勤める学園の創始者もヘレンケラーを尊敬し、学園にお招きしたことがあるとも聞きました。
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サリバン先生と暮らした小屋 |
はじめて覚えたことば water |
ハンツビルはアラバマ州の北に位置します。すぐ北がテネシー、東がジョージアそして西にミシシッピの諸州があります。ハンツビルから高速65号線を南に下りバーミンガムで高速20号線に乗り換え東にゆくと「風と共に去りぬ」の舞台であるアトランタにつながります。車で4時間の旅、アトランタは南部一の大都会、高層ビルが立ち並びビジネスマン達が忙しく動きまわっています。今年のオリンピックを飾ったのもアトランタ、21世紀に向けて南部アメリカが躍動しています。アトランタ・ブレーブスは大リーグ屈指のチームです。女優ジェーン・フォンダのお気に入りのチーム、彼女も良く観戦にやって来るとのことです。アトランタのダウンタウンから車で30分、巨大な一枚岩に南部同盟の3人の英雄、ジェファーソン・デイヴィス、ロバート・リー、ストーンウォール・ジャクソンの肖像を刻んだストーンマウンテンパークがあります。ここはアトランタ市民の憩いの場、休日ともなれば多くの人々が自然を楽しみ
にやってきます。夜には巨大な岩に向かってレーザーショーが開かれます。そこは正にアメリカ、そして南部ジョージア、GEORGIA ON MY MIND に観衆の心は一つになります。
我が家の赤いカローラは家族とともにフロリダ、ルイジアナ、ジョージアテネシーと故障もなくよく走ってくれました。今もまだ元気で走っているのでしょうか。長いようで短かった1年間、様々な体験を私達家族に与えてくれました。それぞれの思いを胸に今は元気に日本で生活しています。いつの日かまた、懐かしのアメリカを訪れる日があるでしょう。
下の拙文は帰国してまもなく私が「食物と健康」に書いたアメリカでの暮らしのようすです。少しでも参考にしていただければうれしく思います。
1993年10月
Alabama に陽は昇る、 Cotton Field に暮らして
-ある研究員一家の NASA/MSFC での一年間-
1992 年 8 月 28 日、フロリダ州、ルイジアナ州に大きな被害を与えたハリケーン・アンドリューが過ぎ去り、その名残の風で夏の暑さがやわいだアラバマ州ハンツビル国際空港に降り立ったのはついこの前のような気がいたします。はじめてのアメリカでこれからどんな暮らしが待っているのか少々の不安を抱いて飛行機を降り、予定より 2 時間近く遅れての到着ではたして迎えの人が来てくれているのであろうか、そんな心配をしていると、心配をよそにそこには岡山理科大の伊代野淳君が迎えていてくれました。
彼は我々の宇宙線研究グループ JACEE( Japanese American Cooperative Emulsion Experiment )の一員で文部省の科研費でハンツビルのアラバマ大学ハンツビル校(UAH)に原子核相互作用の研究できていたのでした。
今回、私が米国を訪れたのは、上級研究員として家族共ども 1 年間、ア メリカ航空宇宙局NASA(National Aeronautics and Space Administration) で宇宙線の研究を行うことが目的でした。家族は日本での後始末を終えて2 カ月後にやってくることになっていました。
当地、ハンツビルには NASA の一つの重要なセンター、マーシャル・スペース・フライト・センター (MSFC、NASAの主要な施設は研究所ではなくセンターと呼ばれる)があります。 このセンターはマーシャル・プランで有名なノーベル賞学者ジョージ・マーシャルの名前を冠しています。初代の所長は第二次世界対戦でのドイツの有名なロケット学者ウェルナー・フォン・ブラウンです。また、NASA の各センターにはビジター・センターと呼ばれる一般人向けの啓蒙センターがあります。マーシャルのビジター・センター( U. S. Space & Rocket Center ) にはスペース・キャンプと呼ばれる宇宙飛行士訓練の体験コースがあり、1993 年 の夏にはクリントン大統領の娘さんがスペース・キャンプに入られたとも聞きました。
さて、NASA といえば、大抵の方がケネディー、ヒューストンとおっしゃるのですが、実は重要なセンターは 3 つあります。一つはフロリダのケネディー・スペース・センター、ここでは主に打ち上げを行います。次に、テキサス州ヒューストンのジョンソン・スペース・センター、ここでは有人宇宙飛行の管制を行います。そしてアラバマ州ハンツビルのマーシャル・スペース・フライト・センター、ここではロケットやスペース・シャトルの開発、テストおよび宇宙での実験の地上訓練を行っています。すなわち、作る、飛ばす、制御するがそれぞれ分担されて主要なセンターで行われているのです。
ところで、アラバマ州は中西部時間帯に属し日本との時差は 15 時間、The cotton state と呼ばれ綿花栽培で有名です。また、同州は根本主義の色彩が強く、米南部から中西部の Bible belt と呼ばれている戒律のきびしい一帯に属しています。隣のアメリカで、最も貧しいといわれているミシシッピ州の次に貧しい州ともいわれています。州都はモントゴメリー、黒人差別の激しい折りにはマーチン・ルーサー・キング博士を中心に黒人の公民権運動の一つの中心地となったことで有名です。
私達が滞在したハンツビルは人口約17 万人、町は 20 Km 四方に広がっておりこの広さは、神戸でいうと、三宮を町の中心とした場合、東は芦屋、西は須磨、北は箕谷というかなり広い範囲に相当しています。今更ながらに、如何に広いところに住んでいたのかということを感心させられています。この広いハンツビルに、公共の交通機関は全くなく車がなければ買い物にも出ることもできません。
アラバマ州でもハンツビルは陸軍のミサイル本部を中心とする軍の施設とその中にあるNASA/MSFC とを中心とし、米国での宇宙開発の中心的役割を担うハイテク産業の町として活気を呈しています。現在ではハンツビルは米南東部で住んでみたい 10 の都市の一つに数えられているくらいです。また、ハンツビルは Space Capital in U.S. と呼ばれていたりもしています。ただ、ハンツビルにはアレルギー、喘息の人が多く、昔原住民のインディアンがこのあたりを sick valley (病気の谷)と呼んでいたとも現地の方にお聞きしました。
MSFC は先にも述べたように NASA の中でも重要な役割を担っており、特にスペース・ステーション(宇宙基地)計画ではその設計から実施まで、大きな責任を担っています。私は、マーシャルの中のスペース・サイエンス・ラボに属し宇宙線の研究を行いました。我々の研究は原子核乾板を気球で上空 40 Km に揚げ観測しそれを回収して解析するものです。
写真はミッション・コントロールの前で撮影したものです。このようにスペース・シャトルが飛んでいるときには写真にあるようにミッション・コントロールの前にスペースシャトルの模型が展示されます。一昨年スペース・シャトルに搭乗された毛利さんもこのミッション・コントロールからの指令で実験を行っていたことは日本でも報道されたと聞かされました。本年 7 月に予定されている、日本の女性宇宙飛行士、向井千秋さんもこのミッション・コントロールの指令により実験を行うとお聞きしています。
毛利さんと言えば、実はハンツビルに着いた約 2 周間後の 9 月 12 日にスペース・シャトル、エンデバーに搭乗されました。毛利さんと一緒の乗ったクルーが写真の人たちです。スペース・シャトル、チャレンジャーの不幸な事故のため搭乗がこの日まで延期されていました。延期されている間、UAH で客員教授として教鞭をとられたり、MSFC で訓練をつまれたりしておられました。
我々の研究グループの中心的存在である UAH の高橋教授が毛利さんと懇意になられ毛利さんからシャトル打ち上げの見物に招待を受けておられました。私もアメリカに着いたばかりでしたが、打ち上げの見物に誘って頂きフロリダのケネディー・スペース・センターに連れて行って頂くことになりました。11 日の早朝車で出発し、約 700 マイルの道のりを ~ 15 時間かけてケネディーの近くコカへ行き、一泊して翌早朝、発射を見物しに行くことに予定しました。当日は招待券(NASAにあらかじめ申し込む)がなければ、一般の人は入れてくれません。見物できる地点は 3 箇所ありシャトルにもっと近い要人の席、宇宙飛行士の招待した人だけが見れる席そして一般の人が前もって NASA に申し込んで見れる席となっています。私達は毛利さんの招待により宇宙飛行士招待席で世紀の一瞬を見ることができました。
写真にあるようにシャトルはオレンジ色の閃光をまばゆいばかりに放ちながら大音声とともに大空の彼方に飛び去って行きました。あまりのスケールの大きさに涙が出てきたのを今でもはっきり覚えています。
秋は綿の収穫時期で綿畑が真っ白になります。ハンツビルの市内を少し車で行くとあたり一面真っ白な綿花畑に出会います。今では機械で綿花を収穫するが、機械化されるまでは人の手で一つ一つのコットン・ボールをつみとっていたのでしょう。この他の農産物としては、とうもろこし、サトウキビがあります。
ハンツビルはメキシコ湾から 400 ~ 500 マイル近く内陸に入っているので、魚介類の新鮮なものは手に入りにくく、いわゆる「魚屋」さんは知るところ 1 軒のみで、確か週に 1 度フロリダに買い出しに行くとのことでした。種類はあまりないが 30 cm 以上のホールの鯛で価格が 10 ドルを切ったように記憶しています。これを塩焼きにするとたいへん美味であったことを覚えています。日本からのお客さんがこられた時にはよく鯛の塩焼きをしておもてなしをしました。新鮮なマグロがある時には刺身にして生で食べたこともあるが、友人に聞くとときどき寄生虫がいるのであまり生で食べない方がよいと忠告を受けましたが、生でついつい食べてしまうのはやはり日本人だからなのでしょうか。
海の魚の他にこのあたりでは Cat Fish(ナマズ)を良く食べます、近くをテネシー川が流れており、そこでナマズの養殖が行われているという話を聞きました。ナマズはこのあたりではフライにして食べるのが一般的です。香辛料の入ったころもをつけてからっと揚げたものはたいへんおいしかったのをおぼえています。ハンツビルから 30 分ほどディケータに向かって高速道路 565 を行った、コットン・フィールドの中にある一軒家のグリーン・ブライヤーはナマズ料理で有名です。
わが家では、白身で蛋白なナマズをてんぷらにして料理していました。ポットラック・パーティーに招待されたときにはよくてんぷらを持って行きました。その中のナマズを彼らも好み、調理法を聞かれたりもしました。その他の郷土料理的なものとしてはバーベキュー(BBQ)料理があります。これは日本の野外でする焼き肉料理とはことなり、レッド・ビーンズ、コーンの煮込んだもの、ベークト・ポテト、カントリー・ハム、グリルド・チキンなどをならべそれらを適当に取って食べます。ハンバーガー用のパンにはさんで食べることもあります。これが結構おいしくて特にレッド・ビーンズ、チキンのおいしかったのを記憶しています。さだかではありませんが、むかし、カウボーイたちが食べていた料理もこの類のものであったかも知れません。
4 月の末に同じ研究グループのルイジアナ大学に居る後輩がハンツビルの UAH に移るというので、ルイジアナ大学のあるバトンルージュ(ハロウィンに関して悲しい事件のあったところ)、ニューオリンズを家族共々訪問しました。ハンツビルからは車で 8 時間、神戸から仙台くらいまでの距離です。ルイジアナ州はアメリカの他の州とちがいフランス色が強く、昔カナダに住んでいたフランス系の人たちが移住してきたということです。そのため、ケイジャン料理、クレオール料理というような独特の料理があります。バトンルージュで後輩が連れて行ってくれたケイジャン料理の食べ放題のレストランは種類もたくさんありたいへんおいしかったことを覚えています、ガンボ・スープ、脱皮したばかりの蟹、鰐肉、クロー・フィッシュなどが印象に残っています。特に、クロー・フィッシュは旬の最中でありこんなおいしいものがあるのかと驚かされました。
フィッシュという名前からどんな魚だろうと思われるでしょうが、実はクロー・フィッシュは日本にもむかし池や田圃にたくさん住んでいたアメリカ・ザリガニのことなのです。この地域だけに住んでおり、養殖もされているとのことで、料理方法はすこぶる簡単でザリガニをゆでケイジャン・ソースと呼ばれる香辛料で少し辛い独特のたれにつけ込むだけです。それを、手で皮をむき食べる、これがケイジャン・ソースのためピッリと辛くいくらでも食べることができます。瞬く間にお皿が皮でうず高くなる。何回もお皿を新しいものにしては食べたのを記憶しています。4 月から 5 月にかけてルイジアナではいろんなところでクロー・フィッシュ・パーティーが開かれるということです。
ニューオリンズはジャズ、トムソーヤの冒険などで有名なミシシッピ川の河口に開けたエキサイティングな町です。ニューオリンズの中心フレンチ・クォータは夜にはバーボン・ストリート(写真)などの人通りの多いところ以外は歩けないような物騒なところですが、昼間は観光客も多くおもしろい町でした。フレンチ・クォータを目的もなくぶらぶら歩いていると、たくさんある飲み屋からジャズの演奏が聞こえてくる。他のアメリカの町とは一風異なった独特の情緒にそそられました。
ニューオリンズのフレンチ・マーケットの横には有名なカフェー、カフェー・ドモンドがあります(写真)。ベニエ(一種のドーナツ)とカフェオレで一息つきながら、通りで演奏しているジャズのメロディーを聞いているとニューオリンズだなーという思いが心をよぎります。確かではないが、カフェオレが 90 セント、ベニエが一皿 3 つ入っていたと思うが、やはり 90 セントくらいであったと思う。揚げたてのベニエは粉砂糖がふりかけてありたいへんおいしかったことをおぼえています。今の日本では、考えられないくらい多くのものがアメリカでは安い。
束の間のアメリカでの一年間、アメリカで買ったカローラは 10 カ月で36,000 Km を走りました。フロリダのディズニー・ワールドに 2 回、ケープ・ケネディー、アラバマのオレンジビーチ、ジョージアのアトランタ、テネシーのメンフィス、ナッシュビル、チャタヌガその他、南部の多くの町を訪問しました。どこに行っても、出会ったアメリカ人は陽気でたいへん親切でした。特に、知らない土地で生活する私達をハンツビルの人たちは温かく向かえてくれ、なにかある毎に親切に世話をしていただきました。
帰国する 2 カ月くらい前からお世話になった方々をわが家にお迎えし幾度となくお別れのパーティーを開きました。今回のアメリカ滞在で多くの貴重な友達を得ることがでました。息子達は異文化に触れ、誰もが経験できない貴重な記憶を持つことができたことでしょう。家族のものに比べ、私の英語は一向にうまくなりません。自分の才能のなさを再確認しています。あれほど良く乗った車も帰国してから一回も乗っていません。アメリカでは乗りたいと思ったが日本では乗りたいとも思いません。お話ししたいこと、エピソードはまだまだ山ほどあります。毎日の生活がドラマでした。アメリカで生活してアメリカという国が少しは理解できるかと思いましたが、アメリカの大きさにますます分からなくなったような気がいたします。これからはアメリカでの貴重な体験を大切にして国際人として活動して行きたいと思っております。
1994年、「食物と健康」より